京都府丹後半島最北端の灯台を尋ねて。
太陽の時間にはその存在には価値が無く、しかし夜の光量の中では何にも変えがたい物。道に迷った時それは「帰還」と言う目印だし、何より精神的に安心できる「すがるもの」。
船の航海のイメージを人生に重ねてみてもつまるところ全然別の問題だけど、目標の見えない迷走は不安で一杯というのは同じ事で。「振り回す腕に何かがぶつかるまで」っていう行為は出来れば避けたいものだよなあ。
じゃあ目標がしっかりしてれば狂いなくたどり着けるかっていうと、そんな保障は誰もしてくれないんだけど。「見えている目標」が「見えない暗礁」に対する警戒心を薄めてしまったりもして。何かを目指しながら同時に「今」を見つめる努力を怠けちゃいけないから、「到達」した人は賞賛されるんだろう。それが如何に困難なことか解ってしまうから。
それじゃ自分はどうなんだよって考えてみると、写真の通り、灯台は太陽に照らされていて、道のぬかるみがどこにあるか良くわかる。だけど、他にも色々目印があって、右に曲がったら知らない場所に行けるかも知れないし、左に曲がった方が近道になるかもなんて色々余計なことを考えて結局、目指すべき灯台がここじゃないのかもなんて言いながら「今」に振り回されているだけなんだろう。
(言いっぱなしでオチねーだろ)
(それに対する答えを模索中ってこと)
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