人生の、どのシーンにおいても広場で展開されるストーリーは無いような気がしていて、退路さえもおぼつかないような。いや、広場はその先に見えているんだけど、半透明の壁に囲まれているというか。
えー、まあその閉塞感溢れる状況においてもごろんと横になってくつろぐ事が出来るくらいの空間は用意されていて、不自由しないっちゃーしない。しかし囲まれている壁がなまじ半透明なばかりに目に映る「その先」に落ち着かない気分になる。それが美しい光景だったとしても、そこで進行中の物語は他人のもので、羨んだり比較して苛まれたりしているんじゃないだろうか。僕はそれを否定できるほど自分の今に自信を持っていない。
僕は学生時代今よりもネクラでさえねーやつだったおかげで、女子と用事以外の会話をする事もなくひっそりと過ごしていたのが原因だと思われる、若い女性の集団を見ると恐怖に近いものを覚えるというまー解決策の見つからない「印象」を持っているがそう、そんなのも壁の向こうのハナシなんだろうな、と。そこに求めるものは無いんだけれど、求めるものが「半透明の壁の向こう」にある限り、避けて通るわけにはいかないのかもなー。何言ってるのかよく解りませんが、求めるからこそ壁が存在していて、期待を持っているからこそ半透明。
いや、本当は袋小路で思い悩んでいるイメージを作り出している「壁」そのものが自ら用意した羅針盤みたいなものなんだろう。長い人生、自分が何処で何をしているのかを把握するための代償で、あるからこそ何となく「解った気で」いられるような。
その行き詰まり続けている空間でダラダラと生きているような気もするし、結構快適な場所だったりと思っているけれどたまには重い腰を上げてよじ登ろうとしてみたり壊そうとしてみたりしないと生きていけそうにないってのは――あれか?どんなに理想的に配分された栄養素をお腹の中に入れたとしても運動しないと吸収してくれないようなもんか?
それにしたってその袋小路は広場の真ん中にしかないので、足掻いたり、努力をしている所を評価するのは周りの仕事だ、勝手に点数でもつけてくれ、と投げやりになる事もあるけれど、点数を期待する事もまた、壁の色を変える要因になっていたりするのだろう……なんて。
そんなたとえ話になっているのかさえよく解らない流れのまま終わります。
(伝わんねー意見はどう始末したらいいですかね?)
(それはあれだ、伝わるタイミング、ってのがあるからさ)