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思いつきと気まぐれが良い響き。だからといって自由なわけでもないけれど。

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みたらし団子を想像したときに、
口の中はどんな気持ちになるだろう
 キューともシーともならずに
 まー って感じ
突然に ふと 時間も場所も違うけど、
旅の途中であるかのような
気持ちになるときがあって、
本当は変わりなく日常の一コマだけど
お得な気持ちになれるなら
少しは気持ちにゆとりがあるってことなんだろう

本当の旅はきっと、出発の時に
全部を終わらせるくらいの準備がないと
無事には済まないんだろうから、
気軽な旅気分は贅沢ないいとこ取り

それでも困難が多くても、魅力を感じるなら、
準備を始めようか

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今三連休の真っ只中で、ラジオをつければどこそこの高速道路で渋滞が何㌔~とかやってるわけだが、最近疲れてるのか全然外に出る気もしないで過ごしているとまーあっと言う間に残すところあと一日。そんなにみんな気分転換しねーとやってらんないのかなとベッドの上でうつらうつら考えたりする。妻からよく「自分のことしか考えてないのね」などと、そんな事言われたらあんた、ど、どんな男だってグッサリ突き刺さるトコあるんじゃねーのかよと言い訳しつつ、実際そうかもしれません、いやそうです すみませんとか、心の中で一人なんとか体裁を保つ努力をしている割りには、『こうしたら幸せ』とかすぐ実行できる幸せのロールモデル初級編、みたいなものをどーしても信じることが出来ないでいるのだ、未だに。

んでまあ、どっか連れてけ視線を背中に感じつつも一人バイクでフットサルの待ち合わせに向かっている最中、まだ明るい空の中にぽっかりとでっかい夕日が目の前に現れたりして、それが中世の城を再現した結婚式場の塔にかかって見えたときにああ、結構絵になるなあ、空に赤い大穴が開いているみたいだと思ったり。地平線に近づくほど大きくなる月は、実際の所錯覚で、真上にあろうが同じ大きさなんだと知識はあっても、地上の建造物や山やなにやら……それらを透かしてみる月はどう見ても大きくて、首が痛くなるほど真上にある時と同じには感じられないのは行き当たりばったりで赴くままに僕が無駄なものを積み重ねてきた原因だったりするのかもしれない、とか。

ただ月を見ているだけ、ならば大きく見えても小さく見えても――そのままに受け入れて、だからどうしたかなんて必要の無い余白になるのかもしれない。しかし雲とか星と一緒に、自分が踏みしめているアスファルトの大地から広がる日常を……見えるからってだけで月と一緒にかき混ぜてしまうから近くにあっても遠くにあっても、それが月だからとかじゃなく、勝手に自分の感情を投影した気になっているとゆーとても身勝手なものなんだろう。

(月みたいに直視できない太陽はどういう位置付けになるんだ?)
(あー……いつでも感じる視線、みたいな。そのくせみんな背中を向けたまま)
(――どういう、こったかね……)

 

人生の、どのシーンにおいても広場で展開されるストーリーは無いような気がしていて、退路さえもおぼつかないような。いや、広場はその先に見えているんだけど、半透明の壁に囲まれているというか。

えー、まあその閉塞感溢れる状況においてもごろんと横になってくつろぐ事が出来るくらいの空間は用意されていて、不自由しないっちゃーしない。しかし囲まれている壁がなまじ半透明なばかりに目に映る「その先」に落ち着かない気分になる。それが美しい光景だったとしても、そこで進行中の物語は他人のもので、羨んだり比較して苛まれたりしているんじゃないだろうか。僕はそれを否定できるほど自分の今に自信を持っていない。

僕は学生時代今よりもネクラでさえねーやつだったおかげで、女子と用事以外の会話をする事もなくひっそりと過ごしていたのが原因だと思われる、若い女性の集団を見ると恐怖に近いものを覚えるというまー解決策の見つからない「印象」を持っているがそう、そんなのも壁の向こうのハナシなんだろうな、と。そこに求めるものは無いんだけれど、求めるものが「半透明の壁の向こう」にある限り、避けて通るわけにはいかないのかもなー。何言ってるのかよく解りませんが、求めるからこそ壁が存在していて、期待を持っているからこそ半透明。

いや、本当は袋小路で思い悩んでいるイメージを作り出している「壁」そのものが自ら用意した羅針盤みたいなものなんだろう。長い人生、自分が何処で何をしているのかを把握するための代償で、あるからこそ何となく「解った気で」いられるような。

その行き詰まり続けている空間でダラダラと生きているような気もするし、結構快適な場所だったりと思っているけれどたまには重い腰を上げてよじ登ろうとしてみたり壊そうとしてみたりしないと生きていけそうにないってのは――あれか?どんなに理想的に配分された栄養素をお腹の中に入れたとしても運動しないと吸収してくれないようなもんか?

それにしたってその袋小路は広場の真ん中にしかないので、足掻いたり、努力をしている所を評価するのは周りの仕事だ、勝手に点数でもつけてくれ、と投げやりになる事もあるけれど、点数を期待する事もまた、壁の色を変える要因になっていたりするのだろう……なんて。

そんなたとえ話になっているのかさえよく解らない流れのまま終わります。

(伝わんねー意見はどう始末したらいいですかね?)
(それはあれだ、伝わるタイミング、ってのがあるからさ)

僕は割と意見の合わない人に恵まれているようで、そんなときは大体相手が主張する事の方がみんなに理解を得易いとは思う。だからまあ、時間ばかり過ぎていく噛み合わないやり取りを避けようと思ったら、引くしかないことが多い。大げさに言えば相手は一人じゃなくて、後ろに-賛同するであろうだれか-を引き連れているわけでこれは何分分が悪い。

歴史を紐解くまでもなく賞賛される人物は独自の視点で物事を捉えた生き方をしているわけだが、そーゆー人は多勢に無勢の環境を乗り越えて、ほかの多くを(時には全てを)諦めて自らが常識をかき回し、そして後々には一般的で平凡なものにしてしまった、とか考えると結局、成功したような失敗したような。抗う気持ちが動く力になっていたのに、ただ頃合を計って取り込まれただけなのかもしれない、とか。

いまいち諦める能力に欠けている僕とは違って、うまい具合に「諦めて」また前に進むんだろーなと勝手に他人の行く末を心配するのも人生の暇潰しにはいいのかもしれない。

(なんかやる気が伝わってこねー文章だな)
(体調は嘘をつかないよな、と……)

50年前に予想した21世紀の技術進歩は4割が叶い、6割が外れたらしい。

そのある意味平和で無責任な、だからこそ前進の力になる「希望」だとも思うのだが、それはそれとして皆さん、こんな風に思ってはいないだろーか?

「描いた理想像はこんな〝現実感溢れる〟ただの〝今現在〟じゃねー」
と。

うまくいかない人生や、どうしてうまくいかないのか解らないもどかしさが僕にはあって、実際無責任ばっかじゃいられねーな、とは思う。夢とか希望とか、そんな楽しみを自分で否定しているんだよなぁ。でもそれは決して一人だけの事じゃないような気もしている。ホントはすげー事なのに生活を潤す魔法ではないから、とかまあ、携帯電話もタイムマシンもビジネスになれば同じものに成り下がるというか成り上がるというか。

だが「叶った」のは紛れも無い事実で。子供の頃に描いた将来の夢は10コのうち四コ叶ってるのかよって考えれば結構なかなかどうして、4割ってのは評価されるべき数字なのかもしれない。それを実感できないのはつまり、どんなにアクセルを踏んでスピードを上げても、周りの〝景色〟は消えないから、その移り変わりが味気の無い現実というブレーキを生み出すのかもしれない。瞬間移動したら夢とか理想だけを受け取れるんじゃねーの?――仮定の話でも印象として、現実に昇華されていない夢は扱いきれない空しさがあるだけのような気がする。

一方で夜空を見上げてみれば、その体系が作られた当時より格段に見えにくくなった星の神秘は、例えば恋愛に悩んだりした時の支えであり続けていたりと、ちぐはぐではある。しかしそれがある限り、夢や希望は失われず、「知らないものを知りたい」気持ちはロマンチックな感情でいられるんだろう。そう、正座の形が変わるほどの遠い未来においても。

(その前に自分の今の問題と向き合えって)
(関わらない方がみんな幸せになれる事もある、かも)

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