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思いつきと気まぐれが良い響き。だからといって自由なわけでもないけれど。

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書きかけペイントソフトを使いこなしてぇよ……というわけで拾ってきたPixia(ピクシア)というフリーソフトを使ってスキャナに取り込んだ下絵を加工&着色していく予定。フリーでこんなソフトがあるんですね。製作者の人はスゴイ。

←の元ネタはまあ、なんというか、コアなファンのついてる某シューティングゲームの方。

 


――完成は未定。ちょっとソフト使ってみたけど、今んトコ筆で書いてる方が簡単だな……何度でもやり直し出来るのがデジタルデータのいいところだけど。

しっかしまあ、学生時代みたいに暇を持て余してる訳でもないのに自分ながら、、、浅く齧るの好きだな、俺。えーとちなみにプロフィールに使ってるのはキャンバスに油絵の具。本人とは関係ありません。

(いつもと文章のスタイル違うんじゃねーの?)
(未完成、ってのは共通事項って事でカンベン)

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誰も皆、選ばれているんだろう。そこから先、選び抜かれていけるかどうかは解らないけれど。選ぶのは僕も好きだ。選ばれるのは……やっぱり苦手かな。

ええと、金の亡者とかそういう言葉があって、それは普段悪い意味で語られるものだが、それこそそういった“才能”や“環境”に選ばれた前提があって初めて資格を得る事が出来るわけで、まあ何かしら〝この人はこうだから〟とか言われるようになるにはそれなりのハードルがある。それが良い評判なら文句無しだけどそうでなくても「俺にゃ適わねーなー」と無個性な僕などは思う。

昔から喜怒哀楽の内、怒りとか哀しみを外に向けて表現するのが苦手なこともあって、「何考えてんだかわかんない」と言われるがそりゃー勘ぐり過ぎだよ、ただ何も考えていないだけだと信じてもらいたい。いや、本当は伝えたい事を我慢しているんだろう。自分を見透かされるのが怖いだけなんだよな、結局。

そんな臆病者でも譲れないものがあって、その数が少ないからこそ頑固になってもう、動かせなくなっている。例えば〝解り易いものが嫌い〟だとか。そのくせ新しい事に飛び込む勇気も段々減ってきてワケわかんねぇ所まで来ている。自分で作った檻の中で家を建てて、そのまた一室でジッと動かない。そんなの楽しくないよ。その世界にはテレビもインターネットも無いんだぜ。

立ち上がる能力はあるのに、気力が底をついた時、電力供給が切れた際の予備電源のように繋ぎとめるものは何か?完全に間違っているかもしれないけれど、それは「好き」とか呼ばれている、寂しさを埋める感情であって欲しい。最後に残ったそれを、形になるまで求め続けていく。叶わなくともそれが、愛と呼べるまで。

(用は金持ちが羨ましいって事か?)
(色恋沙汰について語るつもりじゃないのは、確かだけど)

えーと、「数学という学問は0と1のみで世界を表現する芸術」らしい。これを知った時には理系の人間にもロマンチストがいるもんだなあと思ったものだが、じゃあその数式を僕が理解できるかと言えばそんなことも無いわけで。ただ単にその言葉の響きが質の高いキャッチコピーとしての印象にしかならない。確かにOnとOff、ストップ&ゴーを繰り返していけば、そういう風に一つ一つ決着を付けていけば、曖昧な事柄を形あるものとして、思い悩む事も解決して行けるのかもしれない。

僕の通っていた小学校は近くにスキー場があって、高学年対象で冬になるとちょっとしたスキー実習のような行事が行われていたのだけれど、そのスキー場は1シーズンずっと積雪が保たれるような標高ではないのでタイミングが合えば、そんな不定期なイベントだったように思う。運良く5年、6年の時には連続で行われたのだけれど5年生の時に出来たことが6年生になって全く出来なくて混乱した記憶がある。スキー板を揃えてターンして、揃えたまま止まることが出来たかっこいいイメージのまま6年生になり、そうしようとしたら曲がらなくて転んでしまって、結局ハの字でしか止まったり出来なかった。一年でそんなに技術が落ちるわけもなく、大体からして5年生の時に始めてスキーをしたのに、である。おっかしいなあと思いながらも最後までそのギャップは埋まることなく終了した。普通に考えれば昨年の記憶は勘違いで、「夢に見た理想の滑りを混同していました」と判断するところだけれど、妙にその記憶は鮮明で、先生の話した事から他の生徒にぶつかりそうになった事まで覚えているので、今でも只の作り話か下手になっただけなのかどっちなんだかよく判らない。

これは僕にとって曖昧なものの最たる例で、こんなに落差のある体験は今まで生きてきた中でも飛びぬけている。「去年は出来てたよね?」と周りのみんなに聞いて回ったけれどそれこそ曖昧な返事しか返ってこなかったので、今でもハッキリしない。

1と0、有か無の基準で表す事が出来たなら簡単に終わってしまう話になるんだろーなと。元々下手でした、夢と現実を混同して勘違いしてました、となればスッキリするんだけれど、僕だけに都合の良い世界でもないわけで。

自分から見て遠いところ、それは時間でも距離でも大きさ(宇宙とか原子とか)でも、離れていけばいくほど関係性が薄れていくような、自分の手で「何とかしてやろう」その手出しが出来ない空しさを感じたりもするけれど、実は、その及ぼす影響は、最愛の人の意見と同じくらい密接な力を持っていたりするのかもしれない、とか。

僕は近視なので、裸眼で生活すると手の届く範囲くらいの情報しか焦点が定まらないので人より狭い世界に生きているのかもなー、そういう「遠さ」も時々感じる寂しさの原因だったりするのかもしれない。

数学に関する言葉を冒頭に持ってきておいてなんだけど、まー科学とか技術とかも人間の感覚器官を発展させた、いや特化させた観測機械で宇宙を視たり、原子を見たりしているはずなので、感じられない「無い」ものはそこに間違いなく「在る」ものでも永遠に空振りし続けるのかもなー、と観測手段からして自分自身によって隔離された世界で生きているからこそ寂しさを想うことが出来るのだ、と理論は何もないけどそう思います、ハイ。

(小学生は自分まで騙す、ってことか)
(まあ、無駄な光を放っている遠くの恒星みたいな記憶……とでも)

年を取るにつれて、色々な物事に対するモノサシが増えてきたような気がする。漠然と生きているだけでもそれなりに成果はあるというか、知らないうちにたくさんの視点が身に付くものだなあと、それこそ漠然と思う。

だが、それは「事を自分で作った檻の中から判断する」傾向が強くなっているとも言えるわけで、的外れなモノサシで縮尺を測るような行為かもしれない。それは他人の意見を受け入れる能力の低下とも、一貫した主張を支える自信であるとも、いーかわるいか何とも言えない今の自分がいるのだがつまり、どちらに転んでも本質的な意味で同じものなんだろう。

――ところで最近はラブソングばかり聴いている。これも曖昧な括りで、普遍性があるからこそ安定し、そして発展の無いジャンルだと思う。まー何をラブソングだと感じるかは人それぞれでそこらへんも曖昧なところだけど、世代が違っても通用するそれを、人間って生まれた時から頑固な成分で作られているのかもしれないと勝手に結論付けたりして。

こんな事書いてるのは最近、20も歳の離れた人との意見の相違をひしひしと感じつつ話しているからなんだけども。変な言い方かもしれないがまだモノサシの少ない僕が、大人の対応をして譲らないといけないのだろう。そもそも少し言い合い気味になること自体、僕も頑固な成分が増えてきている証拠に他ならないので。生意気な発言でしかなく、どちらにもプラスにならない意見なら自分を貶めているだけの行為だ。

そんな話を付け加えるなら、「ウチの経営者は猿ばっかりでどうしようもない」って発言を聞いたこともあるが、それってつまり「猿に飼われているあなたは何なのよ」と傍観者としての僕の意見。これも意見の相違が生み出した頑固な人間同士のすれ違いなんだろうなぁ、と実はあんまり他人事ではないハナシを他人事のままにしてちゃあいけないのだけれど、と自戒しつつおやすみ。

(タイトルと内容がこじつけなのはどう反省するんだ?)
(先にタイトル思いついたんだから仕方ねーって、頑固な俺は反省無し)

別の人格を書き手にしたブログを綴っているつもりはないけれど、ここで表している気持ちは、対人とは「隠す感情」と「隠さない感情」のバランスが明らかに違う。

文章を書くのには考える時間の余裕があるし、書き直しも出来る。自分の能力以上のものは出ないけれど、結果に納得しやすい行為だ。

だけどその都度アドリブを求められる人生には、あんなことしなきゃよかったとか恥ずかしく思ったり、あそこでこうすればまったく違う人生になっていただとか言い訳じみた思いに直面することが多々ある。「反省」は未来につながる礎になっても「後悔」は酒の肴くらいにしかならない(そもそも僕は酒をあんまり飲まない)と考えているけど、ニュアンスの問題はさておき、終わってしまったことに振り回されるのはそれが、損得に直結しているからだろう。

ここに何万文字の文章を連ねても生活費の足しにはならないが、仕事上では一秒の判断が豊かな老後を保障してくれる可能性もあるわけで。別に人生をギャンブルにしたくはないが、それは間違ってはいないと思う。ただしその一秒の内容は膨大な過去の時間によって作られた自分の力によって決定されるもので、合格発表を見に行く、確認作業のようなものでしかない。

そういや大学の話をすれば僕は現代文一教科の受験で入ったんだった。受験勉強というものに無縁な生活を送って3年間過ごした後の3学期になって、正直適当に選んだ5校くらいかな、受けた中で先生にも「まあ受けたいんならやれば」と言われた学校。僕の3教科総合の偏差値ではとても無理な話のところだったけど、なんだか受かってしまって「がんばって入った人に申し訳ないな」と思ったのを覚えている。

そして高校時代の3年間はあまり本を読まなかったせいもあって、それだけを取ってみれば多分、中学時代に受けていたらもっと余裕で合格したんじゃないかなとほぼ確信をもって言える。勉強に関していえば何ら得ることのない高校の3年間だったという結果(汗)。

この話の流れで大学の名前を伏せるのは卑怯なので書いておく。

桃山学院大学(青山ではありません) 

に入ったはいいけど、卒業に5年間かかるという罠。ここ最近まで時々、朝起きた時に「ハッッ!!ガッコウ行かなきゃ単位が取れない!!やばいやばいよ」という悪夢のオマケ付でした(笑)。楽をして得たものには価値を感じられないんだろう、あまり学校行かなかったから。

レベルの低い話ですけどね、国語、英語、数学3教科の平均偏差値が40ちょっとしか無かった(↑の大学は合格ライン50くらいだったと思う)僕には「なんでここにいるのかなぁ?もっと自分は違う場所にいるべきなのに」となーんか変な気持ちを引きずったままで過ごしていた悪い見本。あの時代が僕の方向性を決定付けたなと。4+1年の時間は得るものも多かったと思いますが。

まあ今回言いたいのは4年で卒業できるものはしっかりと4年で卒業したほうが悪夢にうなされないですむよ!っていうそれだけの話(笑)。

(負担をかけた親にはホント、申し訳ないっス)
(社会人になっても夢に見るってのは、チト、つらいよ)

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