忍者ブログ

思いつきと気まぐれが良い響き。だからといって自由なわけでもないけれど。

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

えーと、「数学という学問は0と1のみで世界を表現する芸術」らしい。これを知った時には理系の人間にもロマンチストがいるもんだなあと思ったものだが、じゃあその数式を僕が理解できるかと言えばそんなことも無いわけで。ただ単にその言葉の響きが質の高いキャッチコピーとしての印象にしかならない。確かにOnとOff、ストップ&ゴーを繰り返していけば、そういう風に一つ一つ決着を付けていけば、曖昧な事柄を形あるものとして、思い悩む事も解決して行けるのかもしれない。

僕の通っていた小学校は近くにスキー場があって、高学年対象で冬になるとちょっとしたスキー実習のような行事が行われていたのだけれど、そのスキー場は1シーズンずっと積雪が保たれるような標高ではないのでタイミングが合えば、そんな不定期なイベントだったように思う。運良く5年、6年の時には連続で行われたのだけれど5年生の時に出来たことが6年生になって全く出来なくて混乱した記憶がある。スキー板を揃えてターンして、揃えたまま止まることが出来たかっこいいイメージのまま6年生になり、そうしようとしたら曲がらなくて転んでしまって、結局ハの字でしか止まったり出来なかった。一年でそんなに技術が落ちるわけもなく、大体からして5年生の時に始めてスキーをしたのに、である。おっかしいなあと思いながらも最後までそのギャップは埋まることなく終了した。普通に考えれば昨年の記憶は勘違いで、「夢に見た理想の滑りを混同していました」と判断するところだけれど、妙にその記憶は鮮明で、先生の話した事から他の生徒にぶつかりそうになった事まで覚えているので、今でも只の作り話か下手になっただけなのかどっちなんだかよく判らない。

これは僕にとって曖昧なものの最たる例で、こんなに落差のある体験は今まで生きてきた中でも飛びぬけている。「去年は出来てたよね?」と周りのみんなに聞いて回ったけれどそれこそ曖昧な返事しか返ってこなかったので、今でもハッキリしない。

1と0、有か無の基準で表す事が出来たなら簡単に終わってしまう話になるんだろーなと。元々下手でした、夢と現実を混同して勘違いしてました、となればスッキリするんだけれど、僕だけに都合の良い世界でもないわけで。

自分から見て遠いところ、それは時間でも距離でも大きさ(宇宙とか原子とか)でも、離れていけばいくほど関係性が薄れていくような、自分の手で「何とかしてやろう」その手出しが出来ない空しさを感じたりもするけれど、実は、その及ぼす影響は、最愛の人の意見と同じくらい密接な力を持っていたりするのかもしれない、とか。

僕は近視なので、裸眼で生活すると手の届く範囲くらいの情報しか焦点が定まらないので人より狭い世界に生きているのかもなー、そういう「遠さ」も時々感じる寂しさの原因だったりするのかもしれない。

数学に関する言葉を冒頭に持ってきておいてなんだけど、まー科学とか技術とかも人間の感覚器官を発展させた、いや特化させた観測機械で宇宙を視たり、原子を見たりしているはずなので、感じられない「無い」ものはそこに間違いなく「在る」ものでも永遠に空振りし続けるのかもなー、と観測手段からして自分自身によって隔離された世界で生きているからこそ寂しさを想うことが出来るのだ、と理論は何もないけどそう思います、ハイ。

(小学生は自分まで騙す、ってことか)
(まあ、無駄な光を放っている遠くの恒星みたいな記憶……とでも)

PR

◎ Post your Comment
Name
Title
E-mail
URL
Comment
Pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
◎ この記事へのトラックバック
Trackback URL
◎ カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
◎ プロフィール
HN:
dk/zr
性別:
男性
◎ ブログ内検索
◎ カウンター
◎ 最新コメント
◎ 最新トラックバック
◎ フリーエリア
Script: Ninja Blog 
Design by: タイムカプセル
忍者ブログ 
[PR]