人それぞれと言うしかないんだけど。
決して激しく生きているわけじゃあない僕から見ると、やたらと情熱を外に向けて発信している人は「つ、疲れそう……」と思ってしまって、その人にとってみれば甚だ迷惑な話でしかないに違いないのだろうが、気分が萎えてしまう自分が居る。
それはきっと僕に何か足りない所があるんだろう。心の中では、「それって他人に見せる為だけのプレゼンテーションなんじゃねーの?」と冷めた気持ちの自分がいて、素直に賞賛出来ない。「本当の“全開“はもっと違うもんだ」というか、人間はスゲー事ができるものだと思っているというか。(解りにくくなってきたぞ)。
そんな自分が熱くなる時には周りと噛み合わなくて、空回りしてしまうばっかりで、何も生み出さないことが多い。気持ちばっかりで体がついて行かないんだよなあ。どんなに理解不能な行動でもそのテンションが〔本物〕なら、何かそこには形になるものがある筈。僕にはその『覚悟』が足りないと言うことなんだろう。
まーカリスマに憧れる小物の発想ではそれ相応の形しか作ることが出来ず、細々と情熱を出し惜しみしながら生きていくしかないわけで、それが不幸かと言えば正直言って全然そんな風には思わないから、永遠に《与えられる立場》から《与える立場》に立つ事は適わず生きていくのが分相応になるんだろう。何かを残すのは多くの人に対してじゃなくてもいいじゃねーか、それが一人でも。問題なのは狙った通りに《与えられない》ことだったりして、今日も何処かで人生のスタンスが決まるような出来事に出会った人に思いを馳せつつ無責任に幕引き。
(結局ただの『僻み根性』を晒してるだけだろ)
(そ、そう……とも言う)
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