僕の小学生時代はとても落ち着きの無い子供だった。別に暴れたわけじゃないのに4,5,6年の時は担任の先生(1学年ずつ違う人だった)に毎年親が呼び出されるという不名誉な(笑)記録を残している。
何が問題だったかというと、授業中に勝手に席を立ったりするのはもちろんの事、ずっとしゃべりっぱなしで注意を受けても上の空。先生のお仕事に支障をきたすレベルだったらしい。そりゃあ先生の身になってみれば迷惑この上ない。過去の僕を叱ってやりたい。まだ謝る機会も持てていないし。
これは僕がもう思春期も過ぎて十分に成長してから知ったことだけれど、注意欠陥多動性障害(ADHD)という病名があって、学級崩壊だなんだと騒がれていた時に結構マスコミ関係で取り上げられていた。積極的に自分を病気だとは思いたくは無いけど、客観的に考えて、カル~く当てはまるかな(汗)。
それがどうしたかというと、僕の小学生時代には〝落ち着きの無いやつ〟で決着のついていた問題が、今は“注意欠陥多動性障害の疑いあり”ってことになりかねないわけで、そりゃ随分と落差があるな。もう少し僕が遅く生まれてたら先生に呼び出された後戻ってきた親と共に病院行きだったかもしれない。
僕が変なやつだと主張したいわけでは無くて(変なやつだけど)、こういう出来事は昔から何度も繰り返してきたことで。曖昧に定義されていたことが、名前を付けられたとたんにイメージが一般化され、場合によっては大げさな事になる過程というか。現実の現象は何も変わるわけではないのに。
「これはどう把握すればいいのか?」という研究がもたらした結果が、考えた側としては曖昧なものを解りやすく、対応可能なものにしていくいつも通りの行為であったとしても、それを知らされた人の中で誤解による拡大解釈が生まれるといった、望まない事態になるのはどうしてだろう?
それはきっと、「だからどうしたらいいんだよ?」という問いに対して「コレさえあれば大丈夫!」そんな答えが用意できていないからだろう。「怖くないよ」そのためにはとても解り易い免罪符が必要で、色々な問題に関してその取り組みはまだまだ進行中だと。だからきっと、解決策は間違いなくあって、それは拍子抜けする程に単純なことだったりするのかもしれない。
けれど、分析するために一度解体した砂の城を元通りにするのは難しくて、違う形のものが出来上がったりして。それもまた、遠い話だよなぁ……。砂に気を取られて波に攫われても悔しいので、迷宮入りの事件には手を出さないでおこうと思います、実際。
(〝全然役に立たない事〟ばっかり好きなお前はどういう病気なんだ?)
(そりゃあ――ただの〝あまのじゃく〟で良いんじゃないの)
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