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思いつきと気まぐれが良い響き。だからといって自由なわけでもないけれど。

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前のコレから何ヶ月経っとんねんって話ですが( ;^^)、「気分がノッてまいりましたので」昔の文章掘り起こし。人はそれを手抜きとも言う。

作品の感想なのでここに残すのは単純にデジタルデータに変換するため。でも(この当時)本気で全開で掛け値無しの文章なので時間のある人は読んでもらえればなと。基本的に無価値なものだと理解した上で。

例によって作品データ。

著者 ヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)

作品タイトル 死刑囚最後の日(Le Dernier jour d'un condamn)

一番有名な作品であろう、レ・ミゼラブル(ああ無情)より遡ること30余年前、まだ若かりしユーゴーの思想、心情が顕されている……のかどうかはそんなの解らないってか、本人にも解ってたまるもんかと思うような小説。……何が言いたいのかうやむやにしながらどうぞ。※文中の「ギヨタン」は「ギロチン」のことです。本の表記に合わせて書いたので。

   ロマンチスト プリズナー

これは、余生の物語だ。普段なら決して知ることの無い、死までの残り時間を強制的に決められてしまった男の限られた人生のお話。この作品は明確な意図を持って作られていることをユーゴー自身、声を大にして認めている。それはつまるところ、死刑廃止を訴える、ということだ。だからこの作品はそのことのみを追求して作られたものであり、逆を言えばそれ以外何もないということになる。それは書き手の意識であって、受け止める側は決して一つのことだけが印象に残るわけではないが。(子供だけ愛しすぎだろー、「やはり死ぬだろう」なんて、ひどい、とか)。

時代の背景というものは重要で無視できるものではないし、小説(というよりも活字出版物と言った方が正しい)がどういった立場にあるか、どのような層の人に届くかなど大きく違う点はあるにかわりはないけれど、今でも死刑台は役目を終えてはいないことも事実である。まだこの作品は娯楽にはなっていない。

主人公には時間がない。その限られた時間の中で何をするかといえば、遺書を書くのである。という風にして刑務所の中の造りや、看守の態度、囚人たちの言動や移動の際の風景など、読み手に客観的な情報(主人公の主観を通して、だが)を与える内容と、家族のこと(特に娘のこと。いや娘だけのこと)や、迫り来る恐怖について書かれた主観的で感情的な内容とでこの少し長めの短編は構成されている。この作品は問題だけをぽんと放り出して、どのようにでもお好きな感想をどうぞ、という類のものでは全然ない。みなさんご存じでしょうが、こんな問題があって、これはこう解決するしか無いじゃないですか、これを読んでもまだ異論がありますか。ユーゴー自身の声が聞こえてきそうである。

主人公である若い男はどうやら人を殺したらしいが、直接的な表現を控えて、その上、何かやむにやまれぬ事情があったんだろうかと思わせるようなそぶりであり、彼には家族がいるし(なんと〝幼い娘〟まで!)、年をとっているわけではなく、若い。おそらく1830年あたりのフランスでは水準以上の学を持ったやたらとヒロイックな感情表現で文章を書く男で、同情が入り込む余地はいくらでもある。ユーゴーとしてはこの男だけが救われなくてはならないわかではなく、全ての人が死刑という宣告から逃れるべきだということを訴えたかったのに違いないだろうが、どうしても感情論にまかせっきりで、社会的に死刑を廃止するという方向に向かわせる力に乏しい気がする。当時のフランス社会ではこの男の罪の内容くらいがぎりぎり死刑廃止という概念に対して説得力を持ったという事かもしれない(この人死刑にするのはやりすぎだよなーと多くの人から理解を得られるロールモデル)。

もちろん思想というものは個人の感情が集まって作られるものだが、普遍化させるという過程においては、死刑に対する人間、ということではなくて、死刑そのものだけについて考えなくてはいけないような気がする(そして現実をふまえた選択をしなくてはいけない。いきなり全世界死刑廃止だ、といってもそれは狂信でしかない)。人は色々だ。断頭台に立つ人の選ばれ方が変わっているだけのこと。今のところは。

この作品の男はその人生の中で最も〝全開〟で生きている瞬間だと思う。何しろ全てが日常ではないのだから。生命体として高い能力を発揮している状態である。ただし、壁の染みまで記憶するような六週間くらいだとしても、男にはよい結果をもたらさない。時間が遅く感じられ、苦しむ事にしかならず、そのくせ、気が付いたときには時はあっと言う間に過ぎていて、残り時間の少なさにまた恐怖する。作品中の男の感情の起伏はまるでジェットコースターのようだ。諦めたと思ったらすぐ、迫り来る時間におののく。信じられないからだ。自分の終わりが社会の手によって決定付けられることが。これまでの人生の中で決まった未来など一度でもあったか?あったとしてもそれはいつでも変更が可能だったはずだ。それ相応の代償を払えば。……なのに。

『彼らは言う、それはなんでもない、苦しくはない、安らかな終わりだ、その種の死はごく平易なものになっていると』

信じるだけでその通り、安らかに眠れる。しかしそれを邪魔するのが生存に対する切実な欲求。死から遠ざかることを文化や技術の向上によって社会的に実現してきた人間には普段あまり使うことのない生命の基本姿勢。人間は危機にあたって守ることを考える。ほぼそれしかないといっていいくらいになる。守るのは命だ。しかし男はどうすればギヨタンから逃れられるのか答えを見つけられない。信じられないのだが、決定的であるという事も認めざるを得ない。それは間違いなく苦痛だ。死に至る行為が苦痛を無くした後は、それに至るまでの時間こそが当人にとって、死刑の意味である。

司祭は囚人の心を安らかにするための存在として登場するが、この作品では決して効果を挙げることはなく、他の職員と同じく決められたことを繰り返しているようで、男の心の中に少しも響いたりはしない。もしかしたらその司祭はとても真剣に心の救済を行おうとしているけれど、向いていないというか、雰囲気がわざとらしく見える人で、気持ちが空回りしているだけかもしれない。いい加減、くらいの態度でやった方がカウンセリングはうまくいくという話も聞いたりするし。どちらにしろ制度上の機能としての宗教は作品中では役に立たない。ユーゴーはあくまでも男に最後の時まで安らぎをあたえることはない。これは救いを勝ち取るための作品であり、作品中に救いは要らない、といったところか。娘であるマリーに会えても彼女は父親のことを覚えていないばかりか、悪意は無いとはいえ、たどたどしい言葉で死刑宣告文をよみあげられてしまうという絶望的な仕打ちを受ける。あんなに、母親も妻のこともどうでもいいと言ってまで大切に思っていた娘に。――どん底までおちた状態でもうあと10ページとなる。

物語が最後の舞台に移動する間、男は熱狂ともいえる興奮状態の群集と対面することになる。人々は四時に行われるイベントを見に来ていて、その主役は男である。いったい道沿いや広場に何人の人がいるかは定かではないが、この人数は男の死刑に対して用意されたものである。ただの若い男でしかない彼のために国王や憲兵、司法関係、……執行人といった行政側の人間と多くの見物人。死というものがそのイメージだけでどれほどの力を持つか、この状況はある程度表していると考えられる。男はもちろん過去において有名人ではないし、よって野次馬は見知らぬ男がこれから死ぬ、という認識でしかない。この場所で男に価値があるとしたら死、しかない。ただ一人の男の死。なのにこれだけの人が動く。言い換えればエンターテイメントとして成立するということだ。そして群集に苦痛はない。哀れみや悲しさはあろうとそれはやはり他人事で、死刑囚は祭りのための生贄だ。

この作品でユーゴーが描いた人間の心理について個人的にもっとも興味深い場面は、最後にもう一度(というか初めて)なりふり構わずにギヨタンから逃れようと懇願することだ。話の冒頭からどれだけ大切に思っているのかを過剰なまでの表現で描写されてきた娘に死刑宣告をされ、心は絶望し、希望の消え失せたような空っぽに近い状態であったにも関わらず、心の内はどうあれ、法定でも、『今日なんだ!』と気付いたときも静かだった男が、激しく感情を露わにする。そしてそんなときでもユーゴーは執行人が言う、これは仕事で時間が無い、雨が降っているので機械が錆びるかもしれない、という行う側としては当然の意見、そして救いのない言葉、をはさむことを忘れない。まるで人の心を弄んでいるかのようなラスト2ページ弱だ。

『私は心の中に天国を持っていた。そのことを私は生命のある限り忘れないだろう。生命のある限り!』

人は後悔する。振り返って手が届くものならどうにかしたいと願う。それは死刑囚だろうがそうでなかろうが同じ事だ。やり直す、という可能性を絶たれたかどうかの違いだ。それだってすぐに忘れてしまって結局取り返しがつくかもしれないことを隅っこに置いたままにしがちなので、実のところそんなに差はない。見落としがちなものが実は大切だったりするのは日常のワナだ。人は苦しいことはこういう風に苦しかったと記憶するが、楽しいことはその雰囲気だけで、あいまいな記憶になりがちで、それは忘れやすい、ということでもある。今年は良い年でした、と言えることがいかに難しいことか。

一人の死刑囚がいたとして、その人の人生を善いことも悪いことも平等に、ただ記録しただけの映像があり、それを見る。そうしてしまえば死刑だなんていう刑罰がどうしてあるのか信じられなくなり、死刑反対の考えに傾くんじゃないだろうか。何事にも原因があり、それを知ることになるから。他人が決定的な破滅の前に立たされているのに手を差し伸べなかったり、その終わりを望んだりするのは単純に、無知と無関心によるものだ。ただ、この二つが社会を前に推し進める上でとても大事な要素だとも思うし、悪いことだと決めつけることも出来はしない。なので結局は泥沼にはまりそうだが、はまること自体は分かっていることで、一つの物事を深く考えればそれだけで答えから遠ざかっていくのは仕方ない。泥沼の中でこそ、やれることがあるのだともいえる。大切なことはたくさんあるが、一人一人がやれることはその中から数個しか選べない。

人間が〝生きて〟いる限り死ほど直接的で強い事態はないし、それは過去だろうが未来だろうが変わりはない。それでも、死刑を廃止するには、死刑によってもたらされる効果を何かで埋め合わせしないといけない(少なくとも納得したような〝気〟にならないといけない)し、それは今でも出ていない答えの一つで、考え続けなくてはいけないことだ。

人間が、美しくなることを望むのならば。

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