『あなたの人生は楽しいですか?』
人生が楽しいと答える人は今の現状に明確な不満を挙げることが出来るようだ。あまり楽しいとは言えないと答える人に「それは何故ですか?」と問いかけてみてもハッキリとした回答は無くて、総じて「何となく……」といったぼんやりした答えが返ってくるだけで、その「つまらない日常」をどうしたら良いかは他人が考えることで、自分の責任では無いという事になるらしい。
この話を知ったのがいつだったかは忘れてしまったけれど、その時「ああ、成程な」と妙に納得したことは憶えている。
楽しいか否かは常に、何かとの比較によって評価されるもので、「楽しんでいる人」からすれば楽しくない事への意識が常にあって、「もっとこうなれば楽しいのにな」と思うものらしく、楽しくない今を生きている人にとっては常に周りの環境はうんざりする様な色をしていて、何か一部分がダメなわけではなくて、強いて言うなら全部ダメという結論に行き着くようだ。
取り立てて不満も無く、声高に叫ぶ主張があるわけでもない平和な人生は倦怠感と共に歩まなくてはならないようで、それは生物にとってストレス以外の何者でも有り得ないと。
過去の歴史を見てみても、かの有名な独裁者が民主主義の手続きを経て、国民の総意の下に民族主義を打ち出した時も、停滞感、そして漠然とした将来への不安感が世間に蔓延していた時に起こった出来事だ。それは虐げられた人々にとってはただの大迷惑で、悪に対する正義の報いと言うような話では全然無くて、その証拠にその後に至って振り返った時に「どうしてあんなことになってしまったんだろう」そんな感じで何処か他人事のような曖昧な感覚でしか受け止められないものになってしまった気がする。勿論、2度と起こさないようにと堅く誓った歴史への懺悔があるのは間違いないんだけれど、同じ事を繰り返してきたのが歴史であり、「その事実から目を背けないですべての人が対峙する」それはそれで狂気を感じると言うか不自然なことだったりすると思う。
特に不満も無く人生を過ごす事は少しずつ濃度の上がってきている密閉空間の様で、そこに外部からの新鮮な空気が入ってきた時の反動は蓄積された時間に比例して、劇的なものになるから、それは嫌だから、時々は見たくないものでも触れて行こうと歩いてみても、つまるところそれも「我慢」だろ。自然体で心を開かないと、「前向きな何か」には出会えないだろ?
残された道は確信犯で、意識的に「全開で逃亡する」と言う手段であり、臆病な人間でも何かを生む行為になり得るかもしれない、ということで、自分の生き方を強引に肯定しながら終文。
(歴史的な考察も甘すぎるっつーの)
(臆病者の知識はそんなモン、ということで)
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