歌が流行っていた。
ありきたりで使い古されたような歌詞を、たわいも無い単純なメロディーに乗せて歌われるその歌はFMラジオからしか流れることはなかったが、ほとんど舞姫町の全員が口ずさめるほどの知名度を誇っていた。
しかし一歩、舞姫町の外へ出ると誰もその歌のことは知らなかった。その理由というのは単純で、舞姫町だけで聞けるローカルFM局からしか流れていなかったからである。
地域的とはいえ、これだけ流行れば誰が歌っているのか、とか、うちの局でも使わせてくれ、とか、金の匂いを嗅ぎ付けた気の早い人間が、「CDにしましょう、こんな素晴らしい楽曲を世に広めようとしないのは良くない」等の問い合わせやらビジネスの話やら何やらでそのFM局『Maiki FM』は対応に追われることになるわけだが、局側は一貫して、この曲に関してはノーコメントの姿勢を変えることはなかった。結果、この曲に関してわかることは、歌っているのが声を聞く限りおそらく女性だ、ということと、タイトルが、〈夜蒼曲〉である、ということだけだった。
*
……高い空には雲は無く、ただ澄み渡っている。
彼はそれを公園のベンチに座って見上げていたが、ふと周りを見渡してみると日の落ちた水平線から急速に明るさが失われていく。それに合わせて気温も肌寒さを感じるほどにまで下がっていた。
座っているベンチは、上空から見ると楕円形をしている公園の一番奥まった所の広場にある。楕円の線に沿うように外周道路があり、内側はまばらに木々が生えている林になっていて、小道がその中に幾筋か通っている。市街地側から公園に入り、どちらかの外周道路を十分ほど歩いて広場につくと目の前が開けて海が眼下に広がる景色が美しい。昼間にはちらほら親子連れや年配の人たちを見かける広場だが、今は彼以外の人影は無かった。
「秋の気温と女心……違うかな」
呟いたその言葉は誰にも届くことはなく、空に吸い込まれた。
いよいよ寒さも増してきたけれど、木で作られたベンチは昼間の太陽の暖かさがまだ残っているような感じがして離れがたかった。
しかし気温はどんどん下がる一方で、空にも星が輝きだし、近くの木々が、さわ、と鳴る。
「……寒いねー。仕方ない、もう行くか。……お疲れ様」
立ち上がり、そのベンチから離れると同時に空に残った最後の青さが消え、夜が訪れた。
――五分後、彼が去ったベンチから少し離れた植え込みの陰から二人の男が姿を現した。
それぞれ安物のダークグレイとカーキ色のスーツを着、手にはビジネス用の鞄を持っていて、何処から見てもふつうのサラリーマンといった印象の格好をしていた。身のこなしも目つきも特に特別なことは無く、怪しい雰囲気は無い。もちろん、二人で夜の公園の植え込みの陰から出てくることを除けば、だが。
二人はさっきまで見張っていた男が座っていたベンチに腰掛けると、そろって組んだ手を上に突き上げてのびをした。
「くうーっ。今日も終わった終わった。……腹減ったな、なんか帰りがけに食っていくか。おい、お前もどうだ、一緒に」
「はい、お供します!……でもですね、食いもんの横にこう……クイっと一杯ってな感じの液体があると素晴らしいと思いませんか……?」
「……待てよ、それなら隣にお姉ちゃんなんか座ってるとさらに好くないか?」
「まいったな……その意見、大賛成!」
寒空の下、三十半ばと二十代前半くらいであろう二人は高台にある公園の中の海が正面に見える広場に設置されたベンチに座り、ハイテンションで話し合っていたが、そのトーンは突然低くなる。
小さくなった声の会話に耳を傾けているものがいたら、「嫁さんが――」とか、「今月苦しくて……だって知り合いの結婚三組連続ですよ……」なんていうのが聞こえてきたはずだ。
最後には二人そろって溜め息をつきながら、
「世知辛いよなあ……」
「世知辛いっすねえ…」
――結論が一致したところで二人はベンチから立ち上がり、公園の出口へと向けて歩き出した。
しばらくの間二人は黙って歩いていたが、鞄を開けてなにやら取り出した若い方の男が、
「でも変な仕事ですよねえ……十時から五時まで見張ってろだなんて。しかも外で一人でいるときに限ってですよ。そりゃあ今日みたいに動けなくて一時間くらい残業することもありますけど、だいたい五時に終わるし……ちゃんと給料出てんのか不安になってきますよ」
外灯に照らされて銀色に光るそれを眺めながら若い方の男が言った。
「まあ、いいんじゃないか?いろいろおかしいところのある仕事だが……俺達は言われたとおりにやってればいいんだよ。もしこれがやばい仕事だったとしたらプロに頼むだろ、プロ。探偵とか、裏家業のなんたらとかさ。ただの社員にやらせるってことは大したことでもないんだろ」
ポケットから取り出したセブンスターに火をつけ、ゆっくりと吸い込んだ煙を吐き出しながら年上の方の男は続ける。
「あまり仕事の内容に興味を持たないことだ。特にこういう訳の分からないやつはな。……ま、この仕事はすぐ終わるって言ってたし、終わったらもとの職場に戻れるって社長も約束してくれただろ?」
高台にある公園を出ると、こちら側は海の代わりに舞姫町が見渡せる。二人のいる出口の後ろ、すっかり暗くなった公園の周りとは違って町の中心部は明るく瞬いていた。
「そう言う風に考えたら、まあ、そうですねえ。会社に顔を出す必要もないし、直帰できるし……ここんところ忙しくて会えなかった彼女にも会えますからね。金がないんで外で食事とかって訳には行かないんで、あいつに何か作ってもらいますよ」
出口のすぐ隣には車を止めるスペースがあり、一台の乗用車が止められていた。
「お前な……俺はのろけ話が聞きたいなんて言って無いぞ」
不安げな顔が浮ついた顔に変化するのを眺めながら、呆れ顔で年上の男は言った。しかし若い男の方は無視を決め込んで、
「あっ、じゃあここで失礼します。明後日九時にいつもの場所で。課長、お疲れ様でしたー」
申し訳程度に頭を下げると、小走りで去っていく。
課長と呼ばれた男はしばらく呆然とそこに立っていたが、その部下らしい男が町の方向へ消えると、ためいきをつきながら携帯電話を皮鞄から取り出し、いくつかボタンを押した。
「はい、本日も別段変わったことはありませんでした。……はい、失礼します」
短い報告を終えると、明るい町の方を見ながら呟いた。
「……今だけだよ、幸せなのは……あいつだって十年前はもっと……優しかったぞ。結婚すると、変わるよなあ……」
男は昨日の出来事と、出会った頃との落差にもう一度ためいきをつく。
出口の横に止めていた自分の車に乗り込むと、男は首を振りながら言った。
「……あの野郎、どこに行くのか知らないが、近くまでなら送っていってやるのに」
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