下山潤は電車の中で立っていた。
地元の舞姫町から電車で一時間ほどの所にある市内のメディアホールというイベント会場で行われている[情報技術の最先端と未来展]というイベントを見に行った帰り、電車の中は普段割合空いている時間帯である2時過ぎなのにも関わらず、混んでいた。なので当然空いている席は無く、立つしかなかったのだが、標準的な身長に、140kgという体重の潤にとって、十分以上ただ立つと言うことはそれだけで苦痛を感じる作業だ。
駅に着く度に潤は近くの席の人が降りてくれないかと願っていたが、なかなか席が空くことはなく、三十分近く立ったままの潤の顔は赤いのを通り越して青くなってきていた。
(誰か降りたっていいじゃねえかよぉ)
心の中で叫んでも誰に伝わるわけではないが、そうでもしないと電車の床に座り込んでしまいそうだった。
(もう、泣きたいよ)
潤の目尻には実際に透明な液体がにじんでいた。もっともそれが涙なのか、顔中ににじみ出ている汗なのかは判らなかったが。
(暑いよなあ。暖房なんてつけるなよな。まだ十月だろぉ)
もう十月も終わろうと言うのに潤は薄着だった。上は下着のランニングシャツの上に半袖のTシャツを着ただけ、下は膝下までの短パンという、ふつうの体型の人なら一ヶ月は前にする着こなしをしていたのだが、それでも下着のランニングは汗でぐっしょりと濡れている。
次の駅に電車は着き、そこでも周りの座っている客がだれも席を立つ気配を見せないのでいよいよ床に座り込んでしまいそうになった時、潤に声がかけられた。
「大丈夫ですか……?顔色悪いですよ。……よかったら座って下さい」
声をかけたのはドアの横の棒を右手で掴んで外側を向いて立っている潤の左斜め前、ドア側から二人目の女の子だった。女の子と言うにしては着ている服が大人っぽいので、二十歳は過ぎているかもしれないな、と、潤の目にはそう見えた。
「……あ、はい。」
彼女が譲って空いた席に座ろうとするが、何しろ横幅が並じゃあ無いので一人分のスペースでは足りない。彼女は座席の一番端に座っている若い男にお願いして席を空けてもらった。
「すみません、ありがとうございます」
「いや、いいって」
男は自分の隣にかわいい女の子が座っていたので動きたくなかっただけで、彼女が席を立つと意味がないから席を譲ること自体は何でもなかったし、その当人に礼を言われて悪い気はしなかったが、幸せなひとときを終わらせた原因の潤にはムカついていた。
(おめーは礼は無しかよ、デブ)
当の潤はそれどころではなく、一刻も早く座りたい、それだけしか考えられない状態で、急いで座ったとき、左手に持っていた布製の買い物袋のような手提げからイベント会場でもらった、=情報で大切なのは量ではなく速度である=とか書かれているチラシが落ちたのにも気付かなかった。
「はーたすかったぁ。……あの、どうも」
少し落ち着いた潤が、礼を言おうと頭を上げて目の前に立っている彼女の方を見ると、彼女は手に持ったチラシを眺めていた。
チラシから目を外すと潤にチラシを差し出して、
「はい、どうぞ。あなたも行ってたんですね。[情報技術の最先端と未来展]に。」
目の前に差し出されたチラシが自分のものであることに気付いて、あわててそれを受け取ると手提げ袋の中にしまう。
「私も行ってきた帰りなんですけど、すごいですよね。ほら、なんて言うか、出来なかったことなんだけど、出来たらいいなー、と思ってたことが出来るようになるのってやっぱり、うれしいですよね」
彼女が言っているのはたぶん、二、三日前に会場内の一企業のブースで発表された、ロボットのことだろうな、家事が出来るとかっていう。
潤はそんなことを思いながら、妙にハイテンションで話しかけてくる彼女を見ていた。潤の目的は今日行われたCGアイドルのバーチャルコンサートだったので他のブースはあまり見て回らなかったけれど、それはこのイベントの一番のウリで、ニュースにも取り上げられていたので知っていた。
「そうだね、便利になるのは嬉しいよ。ついでに飲んだらすぐ痩せる薬とかも出来て欲しいかな」
自嘲気味に言った潤の言葉に彼女は真面目な顔をして、
「人間は空は飛べないけど、痩せることは出来ます。本当に痩せたいと思えば出来るはずです。出来ないのならそれは――努力不足です」
彼女の言葉を少しびっくりして聞いていた潤だったが不意に視線を彼女から外した。彼女はそれに気付いて、
「……ごめんなさい、無責任でした、なんの関係もない人に生意気なことを言ったりして」
「い、いや、いいんだ。言うとおりだし、全然気にしてないから」
ただ単に席に座ることが出来て落ち着いた潤は、彼女の容姿の良さにようやく気付いて、面と向き合っているのが恥ずかしくなっただけなので本当に気にはしていなかった。けれど、彼女がまだすまなさそうにしているので、勇気を出して自分の方から話題を変えることにした。
目は伏し目がちのままだったが。
「か、会場の中で何が一番おもしろかった?」
潤の質問に対して、ぱっと明るい顔に戻ったかと思うと彼女は最近人気のぬいぐるみの新製品の紹介をしていたブースのことや、繊維メーカーの開発した新素材を使って人気ブランドがデザインしたドレスが素敵だったとか、そんなことを楽しそうに話した。
「うん」「そうだね」などとあいずちを打ちながら潤は聞いていた。その内容の大半はよくわからなかったけれど。
実際に、イベントのタイトルである情報技術のなんたらに関係がありそうなそれ系の企業の他にもたくさんの企業がこのイベントには参加していて、大手のゲーム会社は新作の紹介を大々的に行っていたし、大きなスペースを使って国内外の自動車メーカーによるコンセプトカーまで展示されていた。一流企業によるお祭りのようで節操がなかったが、それ故に大勢の入場者を集め、平日である今日も会場のにぎわいぶりは休日と大差なかった。
それがこの電車の混雑につながっているわけだが、さっき潤に席を譲る羽目になった男は楽しそうな二人の会話を外の景色を見ながら聞いていて、だいたい今この電車に乗ってんのはあそこからの帰りの奴らにきまってんじゃんかよ、何でよりによってあんな奴と話すこたねーじゃねーか、俺と話せ、そして電話番号を教えろ、とか自分勝手なことを考えていた。……彼以外にも数人。
そのとき、車内アナウンスが次の到着駅の名前を告げた。
「あ、私、次の駅です。どうもすみません、一人で行ったから、どうしても話したいのを我慢できなかったんです。携帯も忘れちゃって……。誰かに、あれが良かったのとか言いたくて。ありがとうございました、つまらない話を聞いてもらって」
彼女が話しているうちに電車はホームについて、ドアが開いた。潤はお礼を言うのはこっちの方だよとかいろいろ言いたいことがあったけれど、降りようとする彼女に向かって、
「あの……じゃあ」
とだけ、ようやく言った。
彼女が降りた後、潤は次の駅に着くまでなんとなく、あのマンションに住んでる人なんだな……とか考えていた。
潤が降りる駅は、舞姫町の中心部にあり、さっき彼女の降りたのはその手前、町内の山側にある駅だ。
最近開発が急ピッチで行われているニュータウン計画の一環として新しくできた駅だ。計画は半分ほど進んでおり、今も山側の斜面を削り取って出来た土地には完成している建物に混じってたくさんのマンションが建設中なのが潤の家からもよく見える。
電車がホームに着くと、潤は気合いを入れて立ち上がり、ドアの前に立つ。
こちらを見ている視線に気が付き、さっき席を譲ってもらった男だと思い出すと潤は軽く会釈をしてから電車を降りた。
その男の視線に、怒りが込められているのには気付くことなく。
(さっさと降りろよ、デブ)
男は潤の全てに腹が立った。ゆっくりとしたその動作も、立ち上がるときに小さく聞こえた「よいしょ」というかけ声も、何もかもが。
それはただ単に、うまくいかない自分への苛立ちが原因なのだが、なんだかすごく気に入らない、といった気持ちが抑えられない。
男は見た目にもそれと判る不機嫌な顔をしていた。
――突然、隣にいた十五、六歳くらいの少年が静かな口調で語りかけた。
「人間は、何を探しているって、自分より弱いものを探しているんだ。それはもう、一生懸命に」
男が、自分に向けられた言葉だと気付いたときには、もう彼はドアからホームに降り立っていた。
同時にドアが閉まり、電車は動き出したが、男はぽかん、としてホームにいる彼の後ろ姿を眺めている。
(……訳の分かんねーことを)
変なやつだ、と思ったと同時に、意識の奥底で、残酷な何か――に、触れたと直感した。
いつの間にか、苛立ちは消えていた。
ホームから、改札に向かう途中、空を見上げた彼は、午後の日差しに少し目を細めながら、呟く。
「それもまた、間違っている――」
少年の前方には、横幅のせいで前を向いて通れない改札を、カニ歩きしながら通っている潤の姿があったが、彼は高い秋の空をただ見上げていた。
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