今日は平日だが、県立舞姫高校はテスト休みである。中間テストが終わって、一息ついた学生らしき連中が、町の中心部である駅前にもちらほら見受けられた。もっとも、三年生は受験勉強でそれどころではないので、一、二年生がその大半であったが。
二年生でも、熱心な生徒はもう受験勉強を本格的に始めていて、この休日を利用した塾の『一日みっちりコース』に参加したりしていた。
要するに、舞姫高校はそれなりの進学校であり、卒業生の大半が大学に進学する。だから、進学をするつもりの無い三年生の黒田良治にとっては、何となくクラスの中に居づらい気がしていた。推薦入学などで進路が決まっている生徒もいたが、まだほとんどが受験勉強の真っ最中だ。
今日も何人かクラスの男友達を誘って市内に遊びに行こうとしたのだが、ことごとく断られた彼は、一人で駅前をぶらぶらしていた。何かあてがあるわけでもないし、同じ学校の下級生が周りにたくさんいると思うと何となく居心地が悪い。
もう家に帰ろうと思って何気なく周りを見回した彼は、バス停の前で立っている菅野香住を見つけた。その横顔を見て、やっぱりいいよな、と心の中で頷く。
彼女の方に近づきながら、簡単な作戦を立てる。
香住は学校の中でも一、二を争う美人で、厳しい良治の目から見ても文句のつけようがない。
ただ、170センチはある長身と、かわいい、というよりも、凛とした顔立ちがキツめの印象を与えるらしく、あまり誰々が言い寄った、という話は聞かなかった。
性格もあまり愛想のいい方ではないと知っていたが、良治はそういう女が嫌いではない。
これまで声をかけなかったのは、学校以外で一人でいる彼女と出会わなかったからである。彼の経験上、学校の中で声をかけるよりも、外で声をかけた方が同じ学校の自分に親近感を持ってくれるので、効果的だと思っているからだ。
まあ、学校が違ってもどうにでも出来るだけの自身はあったし、つきあった女は違う学校の女の方が多かったが。
「よう、菅野。こんなとこで何してんだ?」
自然に近づき、笑顔で声をかける。顔立ちは並程度の良治だったが、人なつっこい笑顔には自信があった。
隣に立つと良治と香住はほぼ同じ高さの目線になる。
「……バスを待っているんですけど」
ちらり、と良治の方を見ると無表情でそれだけを答えた。
これは想像以上に難しいぞ。心の中で気を引き締めながら、良治は笑顔のままで訊く。
「――どこ行くんだ、これから」
「学校です」
香住の着ている服は制服ではなく、白いパーカーと、細身で茶色のストレートパンツである。外には何も持っておらず、手ぶらだ。
休日だからといって学校に私服で行くのはおかしい、と思ったが、彼にとってそんなことはどうでも良かった。
とにかくバスが来るまでが勝負だ。それまでに、最低でも今後につながる糸口を作っておかなくてはならない。軽い気持ちで声をかけたとしても、真剣に口説く、というのが良治の最大の武器である。生まれついての才能、といっても良かった。
「クラスの連中が遊んでくれなくてさ。ほら、受験近いし。ちょっとでいいから一緒に遊んでくんない?」
「田村さんと遊んだらいいじゃないですか。彼女、まだ一年でしょ」
しめた、と良治は思う。
田村典子は文化祭の間を利用して口説き落とした今の彼女だ。舞姫高校での。――まあ、他の学校にあと二、三人。彼は一つの学校に一人、と決めていた。菅野香住が自分のつきあっている彼女のことを知っているとは意外だったが、彼女の方から自分のことに触れてきたのはチャンスだ、会話が成り立つ。
良治は少し寂しそうな笑顔を作って、言った。
「いや、これがさ、この間フラれちゃって。……今日もそのこと忘れるためにぱーっと遊ぼうと思ってたんだけど、あいつらみんな遊んでくんないし」
ふられた覚えはないけれど。
ウソじゃないよ、お前とつきあうことになったら別れるから。良治は心の中でそう付け足した。
「――――」
香住は彼の方を見つめたまま、黙っている。その瞳があまりにも自分にぴたり、と向けられて動かないので少し良治は気圧された。
まるで真実を見極めようとしているような深い瞳だった。
「ちょっと金あるからさ、少しは遊べるぜ」
良治は自分の嘘を見破ろうとしているのだと思って言葉を続ける。あくまでも自然に、やましいことは何も無いよ、とアピールするために。
しかし彼女が考えているのは全然別のことだ。
――この人はどうなんだろう。
わからなかった。
どうも最近変なことを考えている。自分でもおかしいと思うのだが、本当のところというやつがものすごく気になるのだ。それが何を指すのかという根本的な問題も全然解決しそうになく、要するに、どうしようもないことだと思う。同時に心のどこかで、そんなに難しいことじゃなく、もう解っていて、それが思い出せないだけのようなもので、手が届きそうなところにあるような気がしているから、あきらめられないでいるんだろうか。
そんなことを、考えていた。
その間、香住にじっと見つめられたままだった良治は、これはとてもマズイことになった、と思っていた。
女にだらしない彼だったが、本気で好きになった、と思ったことは十八年の人生の中で二度しかない。今のところ。
そしてその二つともうまくいかなかった。
一人目は告白したその時に、あっけなくふられた。二人目とは何とかつきあうことになったが、一ヶ月も経たないうちに「あなたといても楽しくない」と向こうから別れを告げられたこともあり、彼は本気で相手を好きになることに少し臆病になっていた。
『良治は美人の基準が高い』とよく友人に言われるが、それはただ単に目が肥えていると言うだけで、惹かれるかどうか、ということにはあまり関係はない。だから、決して彼の好きになった相手はとんでもない美人だったりしたわけではなく、外見や相手が持っているものへの理想が高いわけでもない。
どちらかと言えばふつうな感じの女の子で、どこを好きになったかと聞かれても答えられなかったが、好きだという感情には自信が持つことが出来た。
なのにうまくいかないのは実はとても簡単なことで、本気の相手には彼の得意とする技が使えなくなるからである。
嘘をつけなくなってしまうのだ。
そのせいで、とても無口になる。
彼は何となくつきあっている女に対しては、こう言ったら喜ぶだろうな、ということを言うことができた。それが自分は全く思ってもいないことでも。
彼の話す内容というのはほとんどが本音というやつで成り立っているわけではないし、かと言って嘘ばかりか、というとこれがそういうわけでもなくて、だいたいの所はいい加減で曖昧な気持ちのままの言葉が口から出ている。
〝あーそうなんじゃないの?〟というやつだ。
わざわざこれは嘘か、本当か?などと考えながら会話したりはしない。
しかし、普段女性に対して〝真剣〟に会話している彼は、自分の言葉の中に嘘が多分に混じっていることを自覚している。
本気になった相手に対しては誠実でいたい、という気持ちが強すぎるせいで、そんな時、俺は本当にこういう風に思っているのか?と考えながら話してしまうのだ。
いちいち会話の最中に考えながら話すので、口数が減る。
出てくる言葉はといえば、何が言いたいのかわからないようなことばかりだった。
「俺さ、お前のこと好きだと思うんだけど、どう思う?」
「はぁ?何言ってんの」
「いや、自分でもよくわからねーんだけど」
「いろんな娘にいってるんでしょ?知ってるわよ」
「……ああ、まあ、言ってるかな」
「私は嫌だから、他当たってね、じゃあ」
「本気だと思うんだよ、お前のことは」
「……信じられないし、興味ないの。黒田くんに」
一人目の時は、まあだいたいこんな感じで。
彼は(女子の間ではかなり大げさに)女ったらしとして有名で、その言葉に真実味がないということの他に、あきらめの良さも災いしていたし、相手の言葉を全て真に受けるのも失敗の原因だった。
まあ、人が良いともいえるが。
――そんな彼の、本気になる条件――
それは外見などではなくて、自分を見てくれているかどうか、それだけだ。(いや、少しは顔とかも関係ある、恐らく)
彼自身は自覚してはいなかったけれど。
これがけっこう相手のことを理解しようと努力する、というのは好き合っているもの同士でも難しいことで、どうしても相手のことを好きな自分自身のことについて考えてしまうものだ。
まあ、好きだからこそ、かもしれないが。
理由はどうあれ、黒田良治が本気になった相手というのはしっかりと他人を見つめることが出来ている感じのする人間だった。
そしてその人に自分のことを理解して欲しい、と思う。
今、目の前にいる菅野香住にも、それを感じてしまった。
よくわからないが、これは本気になりそうだ、という予感がした。
マズい、と思ったのはそのことで苦い思いをした試ししかなかったからである。すぐあきらめることができ、傍目には全然気にしていなさそうな印象を与える彼だったが、ふられる度に心の中ではけっこう傷ついていた。
できることなら避けたいことだったが。
(それにしてもこれは最短記録だな)
頭の片隅で良治は思う。
(菅野がきれーだからか?)
そんなことを良治が考えているとは知らない香住は、もう彼の方は見ておらず、バス停で道路の方を見て立っていた。
これ以上話したくはありません、という意志表示のつもりだったが、彼が話を続けるわけでもなく、去っていく気配もないまま隣に立ったままなので、どうしたのか、と思い良治の方を見る。なんだか表情が無くなったような顔で、良治が自分のことを見ている。
これは良治の真面目な顔、というやつなのだが、いつも笑顔の彼にはとても不自然で、一番似合わない表情でもあった。
良治は何を言おうか考えていたのだが、結局なるようにしかならない、という結論に達した。「――あのさ、今つきあってる典子のことなんだけどさ」
沈んだ表情のままで言うのでつい、香住はまじめに聞いてしまう。
「俺、あんまり好きだっていうわけじゃなくてさ、ちょっといいなと思ってたら文化祭の委員が一緒になって……それで声かけてみたら向こうもつきあってもいいよ、っていうことになったからつきあってるんだ」
何が言いたいのかわからない、と香住は思ったが、彼の言っていることの中で疑問に感じたことがあったので、訊いてみる。
「田村さんとは別れたんじゃないんですか?」
ふられた、と言わなかったのは香住なりに気を遣ったつもりだった。
しかし、良治の答えに香住は呆れてしまう。
「いや、それは嘘で……菅野とつきあうことになったら別れようと思ってた」
まず、嘘を着いたことを謝ろうと思った。痛いほどわかっている。こんな事を言っても嫌われるだけなのは。
――それでも。
自分の全てを伝え終わったときに、相手がまだそこにいて微笑んでいてくれたら。
どんなに素晴らしいことだろう。
そんな風なことを考えてしまうのだ。
彼は覚えてはいないが、その今となってはわがままな理想は幼い頃、母親に読んでもらった物語に影響を受けたものである。――やっかいで、無くしてはならない、自分を支えるものの一つ。
「実はつきあってるのは典子だけじゃなくて他にもいるんだけど、他の学校に。俺は一つの学校でつきあうのは一人、って決めててさ。ほら、バレにくいかなーと思って。……まあ、バレるときはバレるけどな。とにかく、俺はあんまりほめられたやつじゃねー」
すらすらと出てくる自分の女関係を話していると、確かにこれは最低な奴だ、と自分でも思って良治は心の中で苦笑した。
「――んで何が言いたいかというと、こんな俺だが、なんて言うか……その……」
どう言ったらいいのかわからなくなる。こんな時いつも口下手になるのはいつものことだが、良治はそれを恨んだ。
「お前のことを好きになったみたいだ」
これじゃいつもと変わらない。じぶんが正直になろうとすればするほど、出てくる言葉は嘘っぽくなる。
「他の人に相手してもらって下さい」
香住はそれだけを言った。もう話す気は無かった。
「――――」
いつもと同じ展開に良治はうんざりした。同時に悲しくなる。
「嘘っぽいけど、本気なんだぜ……」
小さな声で呟く。別にそれは香住に対して言ったわけではなく、自分に向けて言った言葉だった。
だがあまりにもそれが悲しそうな声だったので、香住はつい、言ってしまう。
「人に好きだという時は、他につきあっている人がいない時にして下さい」
彼がどうやら本気だ、と言うのは香住にはわかっていた。しかし、今つきあっている相手を軽く見ているような感じがどうしようもなく気に入らなかった。
「……俺が誰ともつきあっていなかったら、何て言うんだ」
カッコわりーな俺。と良治は思った。
「そのときははっきりと――」
初めてここで香住の表情に変化が現れる。
「断ります」
笑顔で言った。
それは良治の予想通りの答えだったけれど、そんなことは問題ではなかった。……しばらく立ちすくんでいた良治だったが、香住の目をしっかりと見据えて、言う。
「あのさ」
にやり、と笑う。
「あきらめられそーにないんだけど」
良治は香住の笑顔にやられていた。これまで味わったことのない圧倒的な何かを感じた。
「時間の無駄だと思いますけど」
「それはわかんねーぞ、やってみなきゃ」
普段通りの笑顔に戻っている良治は冗談っぽい口調で言ったが、本気である。
「今日は出直すわ。もうちょっと待ってくれ、また口説きに行くから」
そう言い残すと良治はさっさとアーケードになっている商店街の方に行ってしまう。
すぐに彼は見えなくなったが、
「どう言って断ろうか……」
香住はというと、早くも断る方法を考えていた。
まあ、好きだと言われたのはまんざらでもなかった。いやかなり嬉しかったが、黒田良治に対してそういう気にはなれそうにない。
そ んなことを思っていた時、駅前の大時計が三時を告げた。
流れるメロディは〈アヴェ・マリア〉。あまり時間帯にあった曲ではない。オルゴール風のその音色を聴いて、バスはまだかな、と思い出した香住は時刻表を確認した。あと五分であることを確認すると、何となく落ち着かないような気分になった。
*
「はぁ……うまくいかねーよな、まったく」
商店街を歩きながら良治は考えていた。
自分がいかにバカなことをやろうとしているのがわかるだけに、ため息も出る。
しかし、菅野香住のあの笑顔が忘れられない。
あの瞬間、何か普通の奴ならぼやけているピントのようなものを強引に合わされたような気がしたのだ。
こいつは間違いなくはっきりと正面に立っていて、自分の居場所をごまかしたりはしない、という感覚。
「――だいたい、フラれるのわかってんじゃねーかよ」
それにも関わらず彼は香住に言われた、〝好きだと言うための最低条件〟を満たそうとしている。
『ほかにつきあっている人がいない時に言って下さい』。
「典子からにするかな……」
これから別れを告げる相手のことを考えると気が重くなった。
しかしそうすると決めた。
「まあ、仕方ねーな。自分の蒔いた種って奴だ」
そう思うことにしたら、少しは気が楽になった。ポケットの中で握っていた手を開く。
ふと、聞き慣れた音楽を耳にして、何となくそちらの方を見る。
商店街に設置されたスピーカーからそれは流れていた。
「ン――ン、ン――」
歌詞を見なくても全て覚えている。
それは彼が特別その曲に詳しい、と言うわけではない。舞姫町に住んでいるものならほとんど誰でも歌うことができる。
スピーカーの音楽に合わせてその曲を口ずさみながら、ま、なるようになるさ、と良治は思うことにした。
商店街を抜けて自分の家が近づいても、まだ彼はその歌を歌っていた。
PR