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思いつきと気まぐれが良い響き。だからといって自由なわけでもないけれど。

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遺産(笑)。ふと思い出した。

そう言や、過去に書いた文章があったな……。

確かプリントしたやつあったよな…あったあった。コレコレ。

読み返してみる。

うーん、今とあんまし変わらない(汗)。成長するって難しいな。しかしよくもこんだけあーだこーだ書けたもんだな。思い入れの無い作品だからかな(いや結構面白くは読んだけど)。琴線に触れまくるものだと多分「面白かった」しか言えない様な、気がするなぁ。

と、言うことで!気になるその全文を公開します。←ダレも気にしてない。

あーメンドクサイナ。データ残ってないからテキスト全部書き写しだよ。言っとくけど長いよ?原稿用紙で10枚くらいにはなるから、覚悟しろよ。←ヒトリゴト。

この続きの本文を読んでハゲしく後悔することになっても責任は持てません(笑)。何かを与えられるような自信は全く!在りませんのでアシカラズ。

一応作品データを。

著者 阿部公房 作品タイトル「デンドロカカリヤ

短編集に収められている20ペーシほどの小説です。

平凡な日常を過ごしていたコモン君が突然、植物化していく阿部公房らしいお話です。興味があれば一読を。

んじゃあ続きをどうぞ。句読点までそのままでお送りいたします。

阿部公房短編集ナッシング・フィアー、ナッシング・ダーク

このレポートの参考にしている文章は阿部公房が初めて雑誌に発表した方のデンドロカカリヤである。後に初刊本では大きく改稿されている。語り手が明確に姿を表す雑誌版に対して、おそらく余計な感情の温度が入っていると判断されたのだろう、初刊本の方では語り手は姿を見せない。そのことをはじめとしていくつかの変更がなされてはいるが、“デンドロカカリヤ”と言うタイトルである以上、どちらを選んでも大きく差はないはずだ。それに雑誌版の方がより説明的で、少しばかりわかりやすいような気もする。図書館で斜め読みした初刊本を後日、借りようと思ったら雑誌版の方しかなくて、わざわざ買うのもいやだっただけの話ではあるが。(この段落は言い訳です)

物語としては、違和感を感じて、それを忘れた頃とても幸せな気分を味わっていたところ、違和感の本体がやってきて、一人で戦うことを決めて(強制的な選択)、叶わず、植物になることを受け入れる話だ。コモン君という普通の男が植物になるという事を教えられたからって、どうしろってんだ。それはきっと、どうもしなくていい。個人として一番賢い選択は自分はそうはならない、という根も葉もない噂のようなものを信じることだ。でもまあ、全体としては――そのことをどうにかする気があるのなら、近づいて(犠牲を払いながら)、見極めて、“知らない”ことによる恐怖を取り除いて、そしてどう対応するか決めなければならない。植物になる人数が増えるような結果になるとしても。

“コモン君の顔は裏返しになっていたんだ”“内臓を葉にして表面に引きずり出し――”植物化というのがどういう意味なのか、手がかりになる文章の一節だ。人間にはウル・ファッイア(原顔)というものがあって、それは『外に向けられた意識の構造物としての顔』の裏側に存在しているとして、その裏側が表に現れるとどうなるのか。それは恐怖感がもたらす想像であって、実際としてはそんなことはあり得ない。例えば、人と話すとき、口で言っていることと、頭で考えていることが違う場合など、表と裏だと考えるかもしれないが、それは何に対応しているかの違いで、ただ二つの作業を同時にこなしていることに他ならない。自分の感情を整理するための心の声と、自分の立場を守るための結果としての会話は別に相反するものではない。場所が違うだけだ。その距離が近くなることが裏側の表出というのなら、その通りである。

もちろん、この、顔が裏返しになったり、内臓を表面に引きずり出す、ような表現は自己の内面をより強く(普段よりも)認識するための表現方法であろうから、決して対応する表と裏というものだけが人間の構成としてあるわけではない。それは0と1を考え出した人間が、物事を判断するときに使う、分割する、という考え方の一面である。

自身を認識する上でも、二つに分けるというのは魅力的な考え方である。分けるのが二つだと対応が早い。それは自身を認識するための一番大まかで基本的な考え方だ。表は裏を、裏は表を互いに安定剤として引っぱりあうことで、表の顔というものは完成している。

そこで、裏の顔はどうなっているんだ、表の顔は他人という鏡のおかげで見当をつけることができるが、裏というのはどんな姿をしているのかわからない。いや、ろくでもない物のような気がする。裏を表の代わりに使うことは出来そうもないと思う。それはそれぞれが専用であるからであり、その用いられる状況が異なるので当たり前である。逆になってしまえば――それは人間ではない。少なくとも人として、例えば大人かどうか、と言ったような抽象的な意味で人というものが語られる場合。

この作品にはじっとりと湿った空気が覆い尽くしている。気だるい感覚が全体を通して伝わってくる。それは『変身』がひどく抗しがたく、時間の進行が変身の最中だけゆっくり流れているから。いや日常というものは常に知覚されないから?

コモン君は結局、植物になった。名刺のようなプレートを幹に張り付けて。いつまでそこで生え続けるのか知らないけれど、それはもうコモン君ではなくて、デンドロカカリヤ-クレピディフォリヤなんだろう。そう言えば、初めてコモン君の植物としての名を呼んだ男(雑誌版では館長)は最後までコモン君の人間としての名を呼ばなかった。もうその男にしてみればコモン君はデンドロカカリヤでしかなく、コモン君であることなど頭の片隅にもなかったからだろう。そう、名前というものは大切なものだ。名前が付いて初めて存在が認められる。それがどういう存在かも一緒に。

コモン君は植物化に逆らっていたわけではない。ただ得体の知れない事態に怯えていただけだ。植物としての名を呼ばれるまでは、その心地よい不快感とやらに身を任せようという気になっていた。そこに現れた敵。コモン君を違う名前で呼び続ける奴。アルピイエなんだろうか。しかしそれはどうであるにしろ、コモン君はそう思うことしか出来なかった。敵だからである。コモン君はアルピイエの出現によって少しばかりコモン君であり続けるわけだが、それは生きる目的というものを敵との戦いに見いだしていたからだ。だが、敵。その男をそう見たということは自分の立場をも決定する。アルピイエについばまれる自分というものを認めてしまうことと同じことだ。アルピイエが敵である限り、植物になることからは逃れられない。それがいつのことになるかはわからないが。

身体的な危機を知らせるものを痛みだとして、精神的にそれに対応しているのは恐怖である。本当のところ、心は身体であり、身体は心であるから、体と心を分けて考えるのは正しくないかもしれない。それでも身体は心だとしてしまうと、例えばメインコンピューターである脳が処理する対応事象は、身体(人体)の範囲内に止まらない。影響を受けて、それを判断するのだから、世界全てが(知覚というフィルターを通して)個人の心を決める構成要素だということになり、取り扱う範囲が手に負えない。何しろ〝全部〟だ。精神と肉体を分けて考えるのは感覚的なものがその根幹を成している。そしてそれには即物的な成果がある。

恐怖感を感じたときにどう対応すればいいか――それは怖くない場所まで移動することだ。対象が世界の病気で、逃れられない原・恐怖のようなものであるとしたら――時々、〝よりどころ〟に帰ることだ。痛みや恐怖というものを感じたいという人はいないだろう。《恐怖や苦痛を自ら求める人々は、それのもたらす快楽に魅せられているのであって、そのもの自体を感じたいわけではない》 しかし、同時に痛みや恐怖を感じなくしてしまうのがどれほど危険なことであるかを知っているはずだ。それらは生きていく上で積み重ねられた警報であり、決定的な破滅を防ぐための自動装置である。

コモン君はなぜ精神的自殺者になってしまったのか。名前が示すとおり、一般的で、普通の男である彼が。それはあまり大切なことではないように思う。作品の内容としては“そうなってしまった”例を書いて、そこに表現したいことを紛れ込ませているわけで、“そういう前提で”書かれているからだ。普通の男にしたのは特徴を無くすことで出来事の特徴を引き立て、読み手自身の中にコモン君を見いださせるためのものだろう。まあ、ホラーといってもいいのかもしれない。この手のやつはみんなそうであると思うが。

コモン君がなぜ戦いに敗北したか。初めは自分がただ気持ちの悪い快楽に落ちてゆく、としかわからなかったけれど、名を呼ぶ男の出現によって自分がどういう立場にいるのか理解したのに、なぜ解決できなかったか。それは戦場に居続けたからだ。敵を見いだし、それと戦うということはそこは戦場である。自分が作った戦場だ。戦いの場を離れて、拳を降ろさないことにはいつかその戦場の中に取り込まれる。何しろ自分で作った戦場だから、自分がやめない限りいつまでも終わらない。そして敵は絶えず隙を窺っており、いつか、そう長くない時間が過ぎた後――敗北するしかない。勝つ、ということは終わらない戦場では存在しない。何しろ敵(障害)は自分が作り続けているのだから。

絶対的な勝利や、絶対的な敗北というものがないとして、勝利と呼べそうなものは戦いをやめる、ということである。危機を回避したという意味での勝利だ。ところが、これがどうやら個人の力ではなかなか困難な作業らしい。戦場に向かおうとする体(心)を引き留めるものが〔手〕であるとしても、自分の手というやつは当たり前のことだが自分の身体についていて、そいつの抑止力はたかが知れているらしい。戦場からの帰還を果たすために必要なものは他人の手であり、意思だというのだ。みんなが手を繋いで、引力に引きずり込まれないようにブラックホールの手前で踏ん張っているような絵があって、ちらほらこぼれ落ちていく姿の中にコモン君が見えたりするんだろう。

みんなで手を繋ごう、そして歩いていこう、みたいなフレーズがあったような気がするが、それじゃ、こぼれ落ちていった人はどうなるんだ、全体として見りゃ、その人を助けない、という選択をしたはずなのに、個人の責任だということになって、消えていったことさえも忘れられてしまうのは悲しいことじゃないのか、手を繋いでいるっていったって結局、“しがらんでいる”だけだろ、そりゃ。

考え方にはたくさんの側面がある。助け合いながら生きていく、という風にとらえても、それは全く、完全に、正解だ。どちらを正解だと思ってもそれは正しい。全員が正しく生きている。それなのに善いことと悪いこと、嬉しいことと悲しいことがあるのは、世界の中にふわふわと漂っている曖昧な現実を、比較検討を一番得意とする人間が繰り返し考えて、区別してきた結果なんだろう。

しかし、政府の保証というのは、とても甘い響きだ。それに近づくも、拒否をするも、選択は自由だ。目の前の現実というのは世界の保証付きだ。

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